北海道育ち ひこま豚

ひこま豚ひこ左衛門とは

北海道森町(もりまち)で育まれるひこま豚。
ひこま豚ひこ左衛門は、ひこま豚の礎を築いた「道南・伝説の武士」として、当社が創作したオリジナルキャラクターです。

 

 

文政12年、横浜村(現横浜市)の旗本「ひこま家」の長男として生を受けた順吉。
飲んだくれで優柔不断な彼が激動の日本を生き抜き、蝦夷地森村(現在の北海道森町)で養豚を始め、やがて「ひこま豚ひこ左衛門」と呼ばれ、森町はもちろん、道南伝説の武士として語り継がれるまでの一生を綴った時代小説です。
(一部フィクションです。)

 

 

時代小説「ひこま豚ひこ左衛門」

第1章/流浪の旅へ

 
文政12年(1829年)、横浜村(現横浜市)の旗本「ひこま家」の長男として生を受ける。
幼名は順吉。ひこま家は1000石を有する裕福な家系で、順吉は親のスネをかじりつつも、父親が師範を努める「ひこま一刀流」の稽古にあけくれる毎日であった。

母親のお七は当時をこう回想する。
「父親に似て剣術が好きな子でしたが、何事も優柔不断というか、自分で決められないことが多かったですね。」ちなみに周囲からは「決めずの順吉」と呼ばれていたそうである。

天保8年(1834年:順吉8歳)アメリカ船モリソン号が浦賀港へ侵入する事件が起きて以来、天保14年(1843年:順吉14歳)にはイギリス船サマラン号が琉球・八重山を強行測量、翌年にはフランス船アルクメール号が那覇に入港するなど、諸外国の影がちらつき始める。

弘化元年(1844年)に15歳で元服した順吉は、名を「ひこ左衛門」と改め、これからの日本国の展望に期待と不安を覚えつつ、どう生きれば良いのか迷うばかり。
なかなか行動を起こさない彼に全国行脚を奨めたのは父であった。

弘化3年(1846年)、信濃(現長野県)で小さな剣術教室を開いていたひこ左衛門は、弟子の一人を迎えにきた姉・さきに一目惚れする。しかし初めて抱いた恋心。ひこ左衛門はなかなかさきに思いの丈を伝えることができない。ひこ左衛門とさきの間をとり持ったのは、さきの弟でひこ左衛門の弟子であるヨネスケであった。
なんとかさきと夫婦となったひこ左衛門は、剣術教室に加え、さきの実家から与えられた土地を耕し、作物を自ら得意先の宿場まで運ぶ、中馬と呼ばれる職に就く。
さきの回想録によれば「一緒にごはんを食べようにも、なかなか品定めができず、なんと優柔不断なんだろうと思いました」とのこと。それにしては一目惚れから結婚までは意外や早かった。

第2章/離別と帰省

 
しかし翌年、1万6千人以上の死者を出した信濃・越後大地震が発生。ひこ左衛門とさきは命からがら逃げ出すも、町は完全に崩壊してしまう。それから5年。ひこ左衛門は町の再興に尽力することになるが、自分の無力さから酒の量が増え、さきやヨネスケに絡むことも多くなった。

 
嘉永6年(1853年)6月、浦賀に巨大な黒船が出現。アメリカの東インド艦隊司令マシュー・ペリーが率いる4隻の軍艦は、それまで鎖国政策をとってきた幕府と国民を恐怖のどん底に陥れた。この知らせを聞いたひこ左衛門は、かつて伝え聞いた諸外国へ夢を馳せるようになり、信州に定住したいと願うさきとの溝が徐々に深まり始める。
さきはこう回想する。
「ずっと一緒にいたいと言っても、う〜んとかそうだなぁとか曖昧な返事ばかり。酒癖も悪くなり、私も正直どうしたものか思案していました。」
そしてついにひこ左衛門はさきとの別離を決意。江戸へ向けて信州を後にする。

 
とりあえず食いぶちを稼がねばならないひこ左衛門は、日本橋品川町でその名を轟かせていた南辰一刀流真武館を訪れる。しかし師範を希望していた彼を待ち構えていたのは、全国各藩から集まった腕自慢たち。ひこ左衛門は逆に教えを乞うことになる。この時、ともに汗を流した門下生の中に、後の日本に大きな影響を与えることになる土佐藩士、坂本龍馬がいた。

 
安政元年(1854年)1月、ペリーは7隻の軍艦を率いて江戸湾に進出。幕府は日米和親条約を締結せざるを得なくなり、下田と函館の開港を余儀なくされる。これ以降、日本国内は攘夷派と開国派の主張が激しくなり、ひこ左衛門は身の振り方を決めるため、久しぶりの実家へ戻ることとなった。

 
それから4年ほど横浜村の実家「ひこま流剣術道場」で過ごしていたひこ左衛門であったが、ある日、父から衝撃的な話を聞くことになる。

 

第3章/新天地へ

 
「日本はこの先、武士の世ではなくなるであろう。開国ともなれば大勢の異国人が日本にやってくる。その時、力を持つのは剣術ではなく商才だ。お主、商いを始める気はないか」

 
それは安政5年(1858年)。折しも同門の友・坂本龍馬が南辰一刀流長刀兵法目録を伝授され、遠い蝦夷地では「森村」が成立した年でもあった。
しばらく聞かぬフリをしていたひこ左衛門だったが、翌年には30歳となり、9月に奥羽六藩が蝦夷地を分割・開拓することになったことを機に、ついに見知らぬ土地へ足を踏み入れることを決意する。この決断にはまる一年を費やした。

 
森村へ入村したひこ左衛門は、その豊かな自然に魅せられ、この地で商いを始めることを誓う。
そんな折、同じく開拓のために入村してきた一家の娘・たま(18歳)にも魅せられてしまい、歳の差を乗り越えて一緒に生活することとなる。
この時の決断はさきの時よりも早かったが、さきとの別離がトラウマとなっていたひこ左衛門は結婚には踏み込まず、たまは内縁の妻という存在であった。

 
たまの父はもともと商人で、ひこ左衛門にたまを娶るよう懇願したが、優柔不断ながら誠実な性格と見抜き、それ以上は強く言わなかった。そして養豚を強く奨めることになる。
本州では相変わらず攘夷派と開国派が激しい争いを繰り返しており、万延元年(1860年)には桜田門外にて大老・井伊直弼が暗殺されたほか、アメリカ公使館通訳が薩摩藩士に殺害されたり、翌年には水戸藩士がイギリス公使館を襲撃するなど、血なまぐさい事件も発生していた。

 
それから9年後の慶応2年(1866年)、ひこ左衛門はたまとともに養豚業に勤しみ、その剣術の腕を見込まれ、松前藩の剣術指南という仕事もこなしていた。
商いと剣術。自分の中では相反する2つの仕事ではあったが、いずれも軌道に乗り、一家は幸せな毎日を過ごしていた。

 
またひこ左衛門がと殺する際、振り上げた刀で一刀両断することから、巷では「ひこま豚ひこ左衛門」という名前で呼ばれるようになっていた。

 
そんな折に届いたのは旧友・坂本龍馬からの手紙だった。手紙には龍馬がおりょうという女性と夫婦になり、寺田屋で負った傷を癒すため、九州の温泉を巡っているとあった。
そういえば同居以来、たまに満足な休みもとらせていないと考えたひこ左衛門は、同居9年目にして婚前旅行に出かけている。

 

第4章/時代の変化の中で

 
しかしその翌年、坂本龍馬が中岡慎太郎とともに殺害されるという知らせが飛び込んでくる。怒りと悲しみで顔を真っ赤に腫らせたひこ左衛門には、たまでさえかける言葉がなかったという。

翌慶応4年(1868年)4月、江戸城は無血開城され、同年9月、明治元年へと改元されることとなった。しかしそれは新たな騒動の火種となった。
旧幕府軍を率いる榎本武揚、土方歳三らが森町鷲の木から蝦夷地へ上陸し、五稜郭を占拠するという事件が勃発。ここで激戦が展開されると読んだひこ左衛門は村人を避難させるとともに、榎本らに時代の変化と新政府への協力を説いたといわれている。
その一方、自慢の豚肉を与え、彼らの士気を高めたともいわれており、新政府からも旧幕府軍からも感謝を得るに至る。優柔不断さが初めて評価された瞬間だった。

明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、ひこ左衛門も40歳を迎えた。その後、ひこ左衛門の名前が歴史の表舞台に出ることはなかったが、後にたまが語った回想録によれば、
「相変わらず優柔不断な人だったけれど、私はとても幸せだった」とのことである。

武士の時代から明治へ。
激動の幕末、養豚業で名をあげたひこ左衛門は、今や森町はもちろん、道南では伝説の武士として語り継がれている。…「完」